2017年10月31日

撮り鉄と乗り鉄


9月の初旬。

家内から一日分の青春18切符を貰った。

もったいないので使用期限が切れるまでに使ってみることにした。

思えば最近、鉄道旅行をしていない。

山陽本線は、故郷との往復でよく使っているが、内陸山間部のローカル線にはあまり乗っていない。

中国地方の山間部のローカル線は本数が極めて少ないのである。

従ってよほどうまく乗り換えをしないと、次の列車に乗るまでに数時間も待たなければならない。

それだけ時間の無駄になるし、へたをするとその日のうちに家に帰りつくことができなくなってしまう。

そこで時刻表を調べ、まず、山陽本線で岡山駅まで行き、そこから伯備線に乗り換えて新見まで。

私は、この中国地方に住みながら新見には一度も行ったことがない。

昔は東寺の寺領として多くの歴史文献を遺している歴史ある町である。

新見から備中神代までは伯備線、それから芸備線で広島に帰るという計画を立てた。

新見で下車して町を散策し、昼食の為ローソンでサンドイッチと牛乳を買った。

この様子では、おそらく列車はがらがらだろうから車内で外の景色を楽しみながら食べるつもりであった。

初めての新見は思った通り、中国地方の山間部の小都市の例にもれず閑散としていた。

旧商店街も火が消えたようだ。

次の三次行きの列車に乗るために新見駅に向かう。

この列車を逃すと二時間近くも待たなければならない。

ホームに着くと驚いた。人で一杯なのである。

よく見ると皆一様に望遠レンズつきの高価な一眼レフのカメラを首からぶら下げている。

それと、リュックサックを負った老人たちのグループが数組。

待っていると備後落合行きの気動車がやってきた。

一両だけの車で、お見合い席が三分の一ほど。残りは通勤電車のような窓に沿って長い座席が2列である。

その車両が着くと、この数組の団体は我勝ちに乗り込んだ。

たちまち席は一杯になり、多くの人が立っている。

この人たちをよく見てみると、その服装からはどうも地元の人ではなさそうだ。

話声を聞くともなく聞いていると、関西弁や関東弁などずいぶん遠くからきているようである。

カメラをぶら下げている連中はそんなに年寄はいない。ほぼ中年のおっさんたちが中心だ。

それにしてもいいカメラを持っている。

これとは別のグループは一見山にでも登るような恰好をしているが、よく見ると、靴は本格的な登山靴は履いていない。

軽登山靴やウオーキングシューズの者もいる。リュックも登山家が持つような本格的なものではない、いわゆるデイパックというやつを背負っている。

しかもほとんどが老人である。少なくとも60歳以上、定年退職後の爺婆連中だ。

始めは今はやりのウオーキングのグループかと思ったが、靴が違うし、それほど本格的に歩くようにも思えない。

一体何者だろう。

そう思っていると車が動き出した。

単線の気動車はまもなく山間部を通り横には渓流が流れ、それに沿って走る。

突然、カメラを持った一人がその渓流に向かってシャッターを切った。

すると、それまで立ってがやがやしゃべっていた連中が一斉にカメラをそちらに向けてシャッターを切る。

反対の方向に向いていたり、窓のない場所にいた者までその窓に殺到し写真を撮る。

そうでなくても混みあっている車内である。

邪魔臭いことこの上ないし、カメラのシャッター音がうるさい。

なんだこの連中は。

それからも車窓の外の何でもないありふれた風景にてんでにカメラを向け、その都度車内を前後左右に動く。

なんとうっとうしいことか。

次第に腹が立ってきた。

がやがや大きな声でしゃべるのも耳につきいらいらさせられる。

それとは別の老人たちのグループは、ホームで並ぶ順番が早かったせいかそのほとんどが座っている。

この人たちは一体何をするのだろう。ただ、乗っているだけで、ろくに外の景色も見ずにしゃべっているが年を取って多少耳が遠いのだろう、声が大きい。

このグループは夫婦らしきカップルが多い。

ふと見ると、何か地図のようなものをもち、それの鉄道線路の上にマジックで線が引いてあるのが見えた。

表紙がちらっと見えたが、どうも鉄道地図らしく、「全国鉄道乗り尽くし?」のような題の本であったように思う。

カメラのグループはそのほとんどが備後落合で降りたが、反対側の上り列車が止まっているのに群がって写真を撮っている。

私はこれまで、鉄道写真を撮っている人はちょくちょく見かけたことはあったが、たいてい一人であったのでさして気にすることもなかった。

しかし、こうも大勢が団体で徒党を組んで写真を撮っているのは初めてで、これは実に鬱陶しいし見苦しい。何か異様な雰囲気である。

カメラのグループが備後落合で降りたので、多少、車内は空いてきて、中の様子が見えるようになった。

よく見ると、地元の年寄らしい人達、これは一見してわかる。

おそらく東城の病院に行った帰りなのであろう。あまり体調がよくなさそうな人達が座れずに立っている。

はっとした。

この車両は、地元の人達にとっては大切な生活鉄道なのである。

買い物や病院通いなど、付近の村々の老人達の唯一の交通手段だ。

いつもなら、この人達は悠々と座席に座れ、楽に移動できたはずである。

ところが今回は違う。よそから来た人たちに占領され、座るどころか立つのがやっとというありさまだ。

数人の地元の老人グループの中で、およそ90歳前後と思われる小柄なおばあさんの体調が悪そうで、蒼白な顔に額に脂汗がにじんでいる。

傍にいる二人の老人がこの人を支えていたがついに床に座り込んでしまった。

気の毒で見ていられなかったが、私自身が立っているのだからどうもしてやれない。

すると、リュックを膝に抱えて座り、大声で話していた他所から来た老人の声が聞こえた。

「気の毒やけど、私らも年寄やさかい代わってあげるとこっちがしんどいしな〜」

すると傍の話相手の老婆がいう。「そうや、こうして楽しゅう話もできんようになるしなあ」

何という連中だ。

確かに連中は年寄には違いないが、せいぜい60を超えたぐらいで鉄道旅行をするだけの元気も経済的な余裕もある。

地元の人たちはそう長くは乗ってはいないだろう。せいぜい駅にして数駅程度ではなかろうか。

その短い区間でさえ代わってやることができないのか。

そう思うと腹が立ってきた。

「代わってやれよ」と言おうと思い近づいてゆくと、車両は次の駅にとまり、先ほどの老人は友達に支えられて降りていった。

このときを機に私の不愉快指数はぐんと跳ね上がった。

折角の楽しいはずの久々の鉄道旅行が台無しになろうとしている。

おまけに立ちっぱなしで少々疲れてきたし、お腹もすいてきた。

新見で買ったサンドイッチを食べるどころではない。

とうとう終点の三次まで食べることができなかった。

三次で広島行きの芸備線に乗り換えた。

この列車は、数両の車両が連結されていて始発であるところから車内はがらがらである。

やれやれ、これでようやく座ることができるし遅い昼食を摂ることができる。

ほっとして、お見合い席の窓側に座り、サンドイッチを取り出そうとしたしたとき、先ほどの車両に乗っていた爺婆夫婦が私の前の席に座り、隣に別の爺さんが座った。

そして座るや否や隣の爺が向かいの夫婦に向かって大声でしゃべり出した。

私の前に座っている婆さんが要領よく相槌を打つものだから隣の爺さんは余計に調子にのって喋りまくる。

大きな声を張り上げ煩い。何しろ私の耳元でしゃべるのだからこれはたまらない。
そして話している内容は自分の自慢話ばかり。

これではゆっくりお昼を食べることもできない。

周りを見渡すと全く人の座っていない席がずいぶんある。

それなのにそちらの方には座らず何故私の前や横に座るのか。

いずれにしても不愉快極まるし、お腹が空いて我慢できなくなったので空いている他所の席に移動した。

そしてやっとのことでサンドイッチを食べ、牛乳を飲んで人心地が付いたが、もう時刻は午後3時を回っていた。

こうして、私の久々の鉄道旅行は不愉快な旅となってしまったのである。

それにしても、あの二種類の異なったグループは何なのか。

ネットで調べてみると、カメラを持っていたグループは撮り鉄というらしい。

彼らは日本各地で問題を起こしているという。

ただ、一人で周りに気をかけながら写真を撮る分には問題はない。

ところが徒党を組むと集団心理が働き、傍若無人な行動をとるようになるのだろう。

もう一方の、ただ鉄道車両に乗ることだけが目的の人達を乗り鉄というらしい。

こちらの方は暇と金を持て余した定年過ぎの老人がほとんどだ。

彼らは外の景色を楽しむわけではなく、ひたすら鉄道に乗ることだけを目的としているらしく、鉄道地図の線路を塗り尽くすことだけが目的のようだ。

撮り鉄と乗り鉄。何れにしても周囲の人を不愉快にするような無神経な言動は止めてもらいたいものだ。

とくに、山間部の生活鉄道の場合は、地元の人達に遠慮して行動しなければならない。

この日、私が見聞きしたことは、日本人も中国人の不作法を笑う資格はないということである。

彼らと大して違いはない。

特に、若い人たちならともかく、人生経験を積んだ老人たちがこれでは、我が国の国民の民度もあまり高いとは言えないのではないか。

もちろん、撮り鉄、乗り鉄と呼ばれる人達全員がこうとは言わないが、このような他人の迷惑を考えないような人たちがいるということも事実である。

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2017年10月29日

店頭から消えたエキナセア


今年も風邪の流行する季節がやってくる。

私は、この季節に備えて、いつもエキナセアを常備している。

前にも書いたので、詳しくはそちらをお読みいただけたらと思うが、これが最近、店頭から姿を消している。

今までは、近所のドラッグストアに行けばいつも置いてあったので、切らしていても気にはしなかった。

いつでもその店に行けばあると思っていたからである。

ところが、最近、急に朝晩が寒くなってきたせいか、少し寒気がする。

これは風邪の引き始めかなと思い、近所のそのドラッグストアに行った。

ところが、いつもあるその場所にはエキナセアがない。

たまたま切らしているだけだろうと思い、数日たって行ってみても置いていないのである。

これはいけない。

たぶん、新たに仕入れるのを忘れているのだろうと思い、よその店にあたってみることにした。

他のどのドラッグストアにも必ず置いてあったからである。

ところが、どの店を探しても、このエキナセアは姿を消していた。

代わりに申し合わせたように全く薬効のないサプリメントが置いてある。

何故だろう。

売れないからであろうか。

それとも、例え売れてもメーカーや店の利益が少ないからか、或は生産中止になったからであろうか。

その辺のところは店員にきいてもよくわからないという。

いまや、テレビでは、健康食品やサプリメントの宣伝の花盛りである。

効きもしないものを思わせぶりなコマーシャルで視聴者を釣り、だましてバカ高い値段で売りつけている。

テレビでコマーシャルをやっているサプリメントはまず、その薬としての効果は期待できない。

薬として認められていないのだから当然であろう。

それをバカ高いお金を払って飲むことほど愚かなことはない。

単なる自己満足でしかなく、お金をどぶにすてるようなものだ。

そのような有象無象のサプリメントのなかで、ただ一つ、確実に効くものがこのエキナセアであったのだ。

これは、自己の免疫力を高める効果があり、そのため、病原菌による感染症や化膿、そして薬では効果のない風邪のビールスにも著しい効果がある。

例えば、目にものもらいができた場合でも、なんだか目がごろごろするなと思った初期の段階で飲むと、次の日は目が腫れ上がるところが3〜4日もたてばそれ以上悪化することなく治ってしまう。

風邪でも、初期の段階。なんだか寒気がすると感じた段階で飲めばそれ以上悪化することはない。

私は、在職中は、航海に出かけるときは必ずこれを持って行ったものである。

これ以上頼りになるものはないのである。

ある時、知人がこれを試したところあまり実感がないという。

よく聞いてみると、飲む量が少ない。

日本のメーカーがその箱やボトルに書いている摂取量は余りにも少ない。

このとおりの量を飲んでいたのでは全く効果がないのは当たり前である。

およそ、その3〜4倍はとる必要がある。

体の小さい人はその成分量に換算して900mgを一日に飲まなければ薬効は期待できない。

成人で体の大きい人や肥満している人はそれ以上とらなければならない。

なぜ、メーカーはこういった嘘を書くのだろう。

それはわからないが、これはメーカーにとってはあまり儲けにはならないからではなかろうか。

その原料はとても安価なものであるので、メーカーとしてもあまりべらぼうな値付けはできない。

何しろ、アメリカではひと月分が5ドル前後で買えるのだから。

こうして近所のドラッグストアで買えなくなったエキナセア。通販で買うしか方法はなさそうだ。それとも直接アメリカから取り寄せようか。

いずれにしても面倒なことにはまちがいはない。

posted by HOK大臣 at 14:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

鉄道の旅を楽しむ

私は鉄道の旅が好きである。

これは鉄道に限らず、バスの旅でも同じだから、特に鉄道そのものが好きなわけではない。

車窓を流れる風景を楽しむ。

この一点に尽きるのである。

外の風景を眺めながら好きな音楽を聴く。まさに至福のひとときである。

アイポッドに好きな音楽をいれて、周囲に音漏れがして迷惑をかけないように、カナル形のヘッドホンで聞く。

カナル型のヘッドホンは、耳の穴の中にイヤーチップが完全に入っていて、ちょうど耳栓をした形になるので音が外に漏れないのである。

従って、周囲の人には全く音が聞こえないから完全に自分だけの世界に入り込むことができる。

音が外に漏れないということは、逆に外の音も聞こえないということで、車内放送も聞こえない。

これは少々困ることではあるのだが。

このようにして音楽を聴きながら外の景色を眺めていると、その外の景色全体が何かある意味をもっているかのように感じられるのである。

つまり、舞台で芝居を見ているように、遠くの山並みが、近くの家々が、そして、歩いている人さえも芝居の一場面を切とったように感じられ、心の底から感動する。

これは、私だけのひそかな楽しみ、悦楽である。

だから、私が鉄道やバスに乗るときは必ず一人だし、絶対にカメラなぞ持ち歩かない。

カメラを持っていると、どうしても良い景色に出会うと撮りたくなる。

カメラを取り出して写真をとっていると、折角の私だけの劇場が中断され、あの至福の感覚が醒めてしまうからである。

私にとって大切なのは、車窓の外の景色や風景なのであり、機関車や車両そのものではない。

先に言ったように、鉄道やバスに乗り、その車窓に流れる風景を味わい尽くす。

これが大切なのである。


ラベル:鉄道 風景
posted by HOK大臣 at 17:31| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

宮島の大聖院・・・お経の大迫力


宮島。

ここに参詣するのは三つの目的がある。

一つは言うまでもなく厳島神社である。

もう一つはこの厳島神社の出口からすこし上ったところにある大聖院という真言宗の寺院。

そして三つ目は厳島神社の背後にある弥山である。

弥山は標高535m。下からこれに登るには丸一日かかるが、途中までロープウエイがあるのでこれを利用すれば比較的楽に頂上まで行ける.。

しかし、この終着駅から弥山の頂上まではかなりの距離があるし、まだまだ険しい山を登らなければならないので齢70を超えた今現在は少々きつい。

したがって、最近では、厳島神社と大聖院にだけはお参りしている。

厳島神社は初詣に行ってお札をいただいて神棚にお祀りしているし、大聖院では波切不動さんのお札が目的で参拝している。

今年は正月には宮島には渡れず、少し遅れて参拝客の減ったころを見計らって行った。

まず最初に厳島神社に詣でてお札をいただき、次に大聖院に向かう。

急な階段を登りつめると正面に波切不動さんの祀られている勅願堂が見え、右手にもは十一面観音様の祀られている観音堂がある。

まず、右手の観音堂に靴を脱いで上がり、観音様の前に座ったとき、突然読経が始まった。

朗々と響き渡る読経の声は私の心を震わせ、ドンドンという太鼓の音が周囲の空気を震わせ、腹の底まで響き渡る。

その太鼓の音はすさまじい迫力で私を圧倒し、臍下丹田に直接ビンビン響くのである。

まるで全身をお経と太鼓で揉みほぐされているようで、あまりの圧倒的な迫力にしばらくの間立つこともできない。

私はこれまでこのような心の底にまで届くような強力で激しいなお経を聞いたことがなかった。

これに比べればジャズなんぞ屁みたいなものだ。

それほどこのお経は、私の心も体も振るわせ、揺り動かしたのである。

しばらくするとそのお経は止み、周囲はもとの静寂を取り戻した。

我に返った私は、勅願堂でお不動さんにお参りし、お札をいただいて帰路についた。

前にも書いたが、この夏は暑かったせいか頗る体調がわるい。

特に胃の痛みには閉口した。

しかし、9月に入り、少し涼しくなると体調も回復し、彼岸の墓掃除も大過なく終えることができた。

胃の痛みもほぼ収まり、体調もよい。

しかし、何か一枚体にへばりついている様な気がする。

これを剥がしてすっきりしたい。

そう思っていると、ある思いが浮かんできた。

あの大聖院の読経と太鼓。あの中に身を置いたらどんなにか身も心も清浄になることだろう。

もう一度あの声と音を聞きたい。

そう思うと矢も楯もたまらず、気が付くと宮島行きのフェリーに乗っていた。
今日は快晴である。雲一つない。

宮島に渡って驚いた。

暑いのは間違いないのだが水面を渡ってくる風が実に心地良い。

順路からするとまず厳島神社からお参りしてその出口からまっすぐ山に向かって歩けば大聖院である。

今まではその順番で回っていた。

しかし、今回は、大聖院の観音様が目的である。

そこで、厳島神社参拝はあとに回し、真っ先に大聖院の観音堂に向かう。

心配していたのは、あの読経のテープが流れていないことであった。

その場合は、お寺の人に頼まなければならないだろう。

しかし、近づくと読経と太鼓の音が聞こえる。

大急ぎで靴を脱いであがり、仏前に額づく。

読経の声と太鼓の音は、前に聞いたよりさらに大きく激しくなる。

読経のスピードはだんだん速さを増し、太鼓もいよいよ急テンポとなりついにクライマックスに至る。

なんという迫力であろう。

読経は心を揺さぶり、太鼓の音は臍下丹田に響く。

圧倒的な迫力で私の心身を揺さぶるのである。

今回の読経は前より遥かに強く激しく感じられた。

これは一体何というお経かわからない。

読経のテープが終わったので、勅願堂のお不動さんとその上の大師堂にお参りし、大聖院を後にした。

そのあと厳島神社の入り口までとって返し、厳島神社を参拝してフェリーに乗り、私鉄の電車に乗って帰った。

驚くことに、本日は体調が素晴らしくいいのである。

全行程6km余り。さらに大聖院はかなりの高台にあり、そこまで急な坂や階段が続く。

しかし、全く疲れはない。

おまけに快晴で日差しは強いのに風は涼しい。

今日は宮島にお参りして本当によかった。心からそう思ったものである。

昼過ぎに家に帰り、ソファに寝転んでテレビを見ていたらいつの間にか寝てしまっていた。

突然激しい歯の痛みに襲われた。左右の歯が全部浮き、噛みしめるといたいのである。

これは何だろう。

数時間、この痛みが続き、何にも食べることができなくなった。

食べ物が全く噛めないのである。

歯全体が浮いて押すといたい。

このような経験は生まれて初めてである。

しかし、数時間経つと嘘のように治まった。

以後、このような歯痛は起きてはいない。

一体これは何なのだろうか。

そこではっと気が付いた。

宮島にお参りすると必ず家に帰ったあと、何らかの体調変化がある。

そういえば、今年の正月明けに家に帰るとひどく疲れが出て、風呂に入ると嘘のようにその疲労が消えてしまった。

そしてこの8月の古武道の演武会のとき。

このときも家に帰ると猛烈な足のこむら返りで苦しんだ。

そして今回の歯の痛みである。

全て、宮島から家に帰った後に体の変調に襲われたのである。

これは宮島の神仏と何か関係があるのであろうか。

悲しいかな、霊感のない凡人である私にとって、この意味するところや原因はさっぱりわからない。

ただ一過性のものなのであまり気にはしていないのだが。

posted by HOK大臣 at 13:21| Comment(0) | 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

お彼岸には親の墓参りをしよう。


この夏のお盆は、散々であった。

以来、体調がよくない。

この原因は盆前の墓の草むしりで熱中症にかかったことである。

その後、度重なる熱中症による下肢のひどいこむら返りを経験し、胃痛に苦しんでいた。

その霧がようやく晴れたのはこの秋のお彼岸の初日になってからであった。

早朝、弟から電話があり、体調がよくないので、今度の墓掃除は一人でやってくれとのこと。

弟の病気は、その治療がとてもきつく、副作用がひどいと聞いていたので、はなからそのつもりでいた。

先月からの胃痛もようやくおさまり、体調もやっともとに戻ったので、そろそろ、墓掃除に行くつもりにはなっていたのである。

さて、いつ行こうか。

何分にも遠い。広島県を縦断して岡山県の西端まで。

ふと、テレビの今日の天気予報をみると、一日中曇りである。

炎天下での墓掃除はつらい。この夏の強烈な日差しがないだけでもずいぶんと助かる。

そうだ。今日行ってしまおう。

そう決断してJRの鈍行に飛び乗った。

笠岡に着くと、広島と同じ曇りである。おまけに涼しい風が吹いている。

墓のある山のふもとまで約2km。

途中で花と線香。そして、コンビニでスポーツ飲料のペットボトルと水2Lを買う。

墓まで登ってみると、ひと月でずいぶん草が生えている。

しかし、先月に比べれば比較にならないし、山の中腹にあることから涼しい風が心地よい。

それでも半時間はかかったが、今回は、暑い日差しもなく、気持ちのよい風も吹いている。

熱中症を警戒して、スポーツ飲料を飲みながら休み休み草を抜いてゆく。

タオルに水を含ませて墓石を拭き上げ、花生けの水を代えて新しい花を生ける。

線香をたき、周りに人のいないのを確認して墓に語りかけた。

最近の情勢や、弟の病気のことなど話しているうちになんだか心の中が温かくなってくる。

まるで、そこに父と母がいるような気がしてきて思わず目がしらが熱くなってきた。

気が付くと一時間以上経っている。

「また来るけえな」そう言葉を残し、山を下りてゆくが今回は体調は申し分ない。

駅の近くまで戻るといつ行っても休みだった中華そば屋が開いていた。

普通は午後2時で一旦店を閉めるのだか、この日は3時近くになろうかというのにまだ店が開いている。

笠岡のラーメンは、変わっている。

だしは鶏肉や鶏ガラから取り、焼き豚の代わりに煮た鶏肉が乗っている。

最近数年、墓参りのたびにこの店を覗くのだがいつも閉まっていて、お腹を空かせてJRの列車に乗ることがしばしばであった。

もう、この店はやめてしまったのだろうと諦めていたのである。

これは嬉しいおどろきであった。

昔、私の子供の頃から、この地には「さいとう」という支那そばの名店があった。

今では中華そばというが、昔は支那そばといった。

私は、この「さいとう」の支那そば以上のラーメンを知らない。

人間というのは、幼少期から馴染んだ味が一番なのである。

しかし、この名店もずいぶん昔に店をたたんでしまった。

その後、あの味を惜しむ人達によって「さいとう」の中華そばは再現されたが、当時の味に最も近いのがこのお店なのである。

長い間待ちかねた懐かしい味である。

今日は本当についている。そう思った。

久しぶりに懐かしい味に舌鼓をうち、大満足してその店を出た。

本日の体調は頗るよい。快調である。

ついでに、近くの天神さんにお参りした。

拝殿の前に立つと実に涼しい風が吹いてくる。今日で一番気持ちのよい風だ。

今日はなんという良い日だろう。

JR笠岡駅に着いてみると、広島までの列車の連絡がとてもよい。

普通は、途中で福山で乗り換え、糸崎で乗り換え、そして広島で乗り換えなければならない。

ところが、糸崎で一度乗り換えるだけでわが町に戻ることができる。

今日は何事も全てスムーズのうまくいった。

このような日は実に珍しいのである。

やはり、お彼岸の墓参りは大切であることを再び認識することとなった。
posted by HOK大臣 at 15:38| Comment(0) | 生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

ひどい熱中症・・・塩分補給をお忘れなく


今年の夏は特に暑かった。

八月の盆前、墓掃除に岡山県の笠岡にある両親の墓を掃除に行った。

例年なら弟と二人で墓掃除をやるのだが、今年は弟の体調が悪かったので車で待たせ、私一人で山の中腹にある墓に向かう。

笠岡駅から約2キロ。それから山を登ったところに墓地がある。

この登り道。実に登りづらい。まともな道ともいえないほどのひどい道だ。

人家が途切れたあたりで簡易舗装が途切れ、あとは舗装もろくにされていない山道である。

ところどころに大きな石や穴が開いているうえにこの斜面の急なこと。

水の入ったポリタンクにお花や線香一式で両手がふさがっている上に、このポリタンクが実に重い。

大汗をかいて息を切らせ、幾度も休憩しながら登る。

この道は若い頃ならともかく、齢70を超えた年寄には相当こたえる。

汗みずくになって坂を上り、墓にたどり着いた。

一坪程度の大して広くもない墓地に一面に雑草が生い茂っている。

これを一人で抜くのかと思うとうんざりする。

とにかく雑草は抜かなければならないので覚悟を決めてしゃがみ込んだ。

ところが、これがうまくしゃがめない。

足首の関節が硬くなっているうえに肥満でおなかがじゃまになってうまくしゃがめないし苦しくて仕方がないのだ。
仕方なく中腰になって草を掴み抜こうとするのだがこれも下を向いてやるので血が下がる。

つまり、草抜きという作業自体がどうやっても楽ではないのである。

そうはいってもこれはやらなければならないことなので一本一本草を抜きはじめた。

真夏の炎天下である。しかも山の中腹で苛烈な日光を遮るものとてない。

ただ立っているだけでも大汗をかく酷暑である。

ましてや、慣れない苦しい姿勢での草むしりとあってはこの苦しさは筆舌に尽くしがたい。

たった一坪の草を抜くのに二時間近くかかってしまった。

夢中になってやっていたのでそれほど時間がかかったことは意識にない。

ただ、下の車の中で待っていた弟が二時間も待ったと言っていた。

全身に水を被ったようになり、目に汗が入る。

鼻水は滴り落ちる。しかし、両手は泥だらけなのでこれを拭うわけにはいかない。

そこへ藪蚊が来襲してくる。

これは堪らぬ。

やっとの思いで草むしりを終えたころは、意識朦朧としてこれ以上以歩くこともままならなくなった。

気力を振り絞って花を代え、線香を焚いたのがやっとやっとであった。

もう限界だ。

苦しくてたまらないので、墓に手を合わせるのもそこそこに山を降りはじめた。

そこで愕然とした。

足がこむら返りを起こしかけている。

こわばってうまく動かないし、激しい痛みに襲われる。

急な下り坂りである。

危なくて一瞬たりとも気が抜けない。

やっとの思いで車のところまでたどり着いたがそこが限界であった。

これを見て弟はびっくりして言葉もない。茫然としてしばらく私を見つめていた。

「兄貴、山で行水でもしたんか?」

暑いので頭から水を被ったのかと思ったらしい。

「馬鹿か。水なんか被るわけがなかろう。これは汗よ」

そうはいったが笑う気力もない。

車に乗り、目いっぱい冷房をかける。

弟が寒いというのもかまわず体を冷やしているとようやく人心地がついた。

その後、ついでに本家の墓に寄り、福山駅に送ってもらう途中で中華そばを食べたら急に元気が出てきた。

やっと体が本調子に戻り、鈍行列車に乗って広島に帰った。

後で考えると、このとき、無理をしたのが後々、尾を引くことになる。

二日ほど家で静養した後、古武道の稽古の為、市のスポーツセンターの武道場でおよそ5時間ほど稽古をし、片道2キロほどの道のりを家まで帰る。

往復4キロ余り、それに冷房のない武道場での稽古である。スポーツ飲料を飲んでいたので、笠岡の墓参りほどではなかったが大汗をかいたことには変わりはない。

家に帰り、夕飯を食べたのだがとんと食欲がわかない。

しかし、無理をしてチャーハンを一皿を全部平らげると急に胃が痛くなった。

この胃の痛みは在職中はよく経験した痛みなのだが、定年退職後は仕事のストレスから解放されたためであろう、すっかり忘れていた痛みであった。

寝れば治るだろうとたかをくくっていたが、いっこうに楽にならない。

そして二日後、朝トイレに行くと何の墨を流したように真っ黒い便がでた。

この黒い便は二日続いた。

胃の痛みは最高潮に達している。

これは胃潰瘍に違いない。そう思って医者に電話をかけても盆の真っ最中のこととてどの病院も休みである。やむなく盆が明けるのを待つことにした。

しかし、盆があけると少しばかり胃の痛みも楽になったこともあり、便も普通の色に戻ったのでもう少し様子をみることにする。

そうこうするうちにひと月が経ち、胃の痛みもおおむね収まったので、ついに医者にかかることなく終わってしまった。

これなど、どうも熱中症で大きなストレスがかかり、胃に大きなダメージを受けた結果、出血したのであろう。

特に、墓の掃除にはかってないほどのストレスがかかっていたようで、それだけならまだしも、二日後にの古武道の稽古でさらに暑い思いをしたことで胃壁がダメージを受けたのではなかろうか。

つまり、熱中症が原因に違いないのである。

熱中症といえば、盆明けの日曜日、廿日市の厳島神社で古武道の演武大会があり、それに出場したのだが、これは毎年の年中行事であるために特に何の熱中症に対する予防もしていなかった。

演武の時間は短時間であったので何ともなかったのだが、何しろ熱いさなかである。

大量に汗をかいたにもかかわらず、ろくな水分補給も塩分補給もしなかったところ、JRの駅に着いた頃から足がおかしくなった。

墓からの降り路で経験した足がつるという症状がだんだんひどくなり、とうとう歩けなくなってしまった。

たかだか500m足らずの道のりが無限の遠方に感じられ、一歩一歩ゆっくりとびっこを引きながら進んで行く。

そしてほうほうのていで我が家にたどり着いた時には、もう一歩も歩けなくなってしまった。

ソファに倒れ込むように座ると、太ももから下の全筋肉が硬直して動かせないし、言いようのないほどの痛みが襲う。

特に、少しでも足を動かすと身も世もないほど痛いのである。

ちょうど、こむら返りをおこしたときの痛さといえばご理解頂けようか。

そこで、頭に浮かんだのは、これは熱中症による体内の塩分が汗とともに出てしまい、ミネラル分不足による痙攣ではなかろうかということである。

足が動かせないので次男を呼び、塩水を作って持ってこさせ、コップ一杯ほど飲んだところ、三十分ほどすると嘘のように治ってしまった。

そういえば、あの墓から降りるときの足の痙攣もこれだったのか。

そう合点がいったのである。

暑い日や、夏の日の運動には、必ず、塩分補給が必要であることを身を持って知ったのである。

暑い日にはついつい甘いジュースや炭酸飲料が飲みたいものだが、そこはちょっと我慢して、あまりおいしくはないがスポーツ飲料を飲む事をお勧めする。

ラベル: 熱中症
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2017年09月17日

亡き人の夢


先週、うれしい夢をみた。

私の恩人であり、私にとって兄とも父とも慕っていた母方の叔父の夢である。

この叔父は、一昨年の正月に突然亡くなった。

まだ80歳には数年残しての旅立ちであった。

その叔父が突然私の夢に現れたのである。

何かをしていて、ふと、私に気が付いたという様子であった。

そして、しばらく満面の笑みを浮かべ私を見つめている。昔ながらの優しいまなざしはかわっていない。

よく見ると、実に若い。三十歳以前の若々しい顔である。そして、その顔は皺は全くなく、肌はつやつやというよりぴかぴか光っていた。

その時の叔父の顔はまるで仏様のように見えた。

そして、横にいた人物に向いて問いかけた。

「だれかわかるか?」

その人物は「たたいじゃあ」と答えた。

私のことを「たたい」というのは、一人しかいない。

それは母の実家に私の幼少の時にいた祖父の弟、つまり大叔父であった。

この大叔父は、幼少の頃、熱病に罹り言葉がうまく話せなかった。

私が子供時分に亡くなっていたので、私はその大叔父の存在をすっかり忘れていたのである。

私が母の実家に行くと、真っ先にでてきて「たたい、ようきたのう」と言って優しくほほ笑むのである。

当時、私を一番可愛がってくれたのがこの大叔父であった。

言葉が不自由であったため、私の名前を正しく呼ぶことができず、「たたい」とよんでいたのである。

はっとしてそちらを見ると懐かしい顔が笑っている。

成人した後、すっかり忘れていたあの懐かしい顔。

私がまだ生まれて間もないころ、父が結核に罹った。

病気をうつしてはいけないので、数年の間、母の実家で暮らすことになった。

まだ乳飲み子である。その赤ん坊の私を一番可愛がって世話をしてくれたのがこの大叔父であった。

なんと嬉しい夢であったことか。

そして、思ったのである。

私は、如何に多くの人に愛されて生きてきたかということを。

これは、私だけのことではない。

大人になって忘れていること。

それは、人は、ひとりで生きているのではないということである。

ラベル:大叔父 叔父
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2017年09月16日

熊野本宮大社の御神徳


今まで、神様の御神徳を頂いたことはかなりある。

ただ、若い頃はどんなに一生懸命祈っても、その願いは目に見えてわかる形で叶えられたことはなかった。

これは、まだ若いうちはさらに努力すべしとのことであろう。

若いうちにその願いを叶えてしまうと、何ら努力もしないで神仏に頼るようになり、それでは本人の為にならないからである。

大切なことは、その努力であり、神仏に頼ることなく自力で己が運命を切り開いてゆくことを期待されているのだと思う。

自分の努力にせよ、神仏の御加護にせよ、願いはその場でわかるような形では成就されることはなく、ずいぶんあとになって振り返ってみると、望みは叶っていることに気が付くのである。

これと反対に、老年に達すると、気力も体力も落ちてくるし、その人の人生もあまり後がなくなり、あまり時間をかけることができなくなってくる。

そういった事情もあってか、神仏に祈願すれば、わりにはっきりした形で御神徳がいただけるのではなかろうか。

最近の顕著な例を挙げてみよう。

これも私の弟の話である。

今年になって、弟は膀胱の具合が悪く、突然尿意を催し我慢ができなくなったという。

泌尿器科に行って検査を受けても異常がない。

しかし、だんだんその尿意の間隔は短くなり、とうとう外出もままならなくなってしまった。

彼は、以前から熊野の三社巡りを計画していた。

それも、一人ではなく、数人のグループで行動するのだから自分だけ抜けるわけにはいかない。

そこで、紙おむつを使用することにしたのだがこれが実に具合が悪い。

しかし、背に腹は代えられず、やむなくこれを装着して出かけたという。

まず、最初は、熊野本宮大社に参拝し、この旅行の期間だけでも紙おむつを使わなくて済むよう、突然の頻尿が止まりますように一生懸命祈願したそうである。

その結果は驚くべきもので、その旅行が終わる三日の間、一度も行動中に尿意を催すことがなかった。

弟は、参詣旅行から帰ってすぐに電話してきて言う。

「熊野本宮大社の御神威はすごい。あれほど、苦しんでいた頻尿が、この参詣旅行の期間は一度も起きなかったんじゃけえの。おかげで小便臭い体で神様にお参りせんで済んだわ」

「帰ってからはどうなんか」と私が聞くと、「旅行から帰ったとたんにまた始まったよ。今も外出するときはおむつの世話にならにゃあいけん」

「神様にゃあ、この旅行の期間だけ助けて下さいとお願いしたんじゃけえ家に帰れば元の木阿弥よ。しょうがないのう。この病気を治して下さいとお願いすればよかったかも知らんが、あまり欲張ってもなあ」そう言葉を継いで電話を切った。

これも、たまたま参詣旅行の期間だけ体調が良かっただけとも考えられるが、そうして下さったのが熊野本宮大社の神様のお力だと考えれば納得がゆこう。

信じる者は救われるのである。

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2017年09月15日

真っ黒いもの・・・これは何だ!


昔、私が東京にいたころの話。

幼馴染のところに遊びにいったとき、話がはずんでついつい長居をしてしまい、その夜はその家に泊めてもらった。

そのとき、隣に、その家の主の弟さんも床を並べて寝ていた。

ひさしぶりにあったので、電気を消した状態でしばらく昔話をしていた。

ちょうどきれいな月夜で、窓から月の光が差し込んでいてそのまま寝てしまうにはもったいない気持ちのよい夜である。

まもなく隣から寝息が聞こえてきたので私も寝ようと思い、目をつむっていると知らぬ間に寝てしまった。

突然、胸の上に重いものが乗っかってきた。

そのとき思ったのは、隣に寝ている○○ちゃんが寝ぼけて乗ってきたのだろうと思った。

しかし、何か変だ。

目を開けると私の胸の上に乗っているものは真っ黒い大きなものである。

なんだこれは。

部屋のなかはいつの間にか暗くなっていたが、その真っ黒いものはさらに漆黒で気味が悪い。

その黒いものからは名状しがたい薄気味悪さ、まがまがしさが伝わってくる。

これは夢なのかと思い、声を出してみるが、いつもの金縛りと違い、声は出せる。

隣に寝ている○○ちゃんの名前を呼んでも全く反応がない。

ということは、これは夢ではない。意識は実にはっきりしている。

上に乗っているものはだんだん重くなり、体を締め付ける力はいよいよ強くなってくる。

そろそろ限界に近づいてきた。

もうだめだ、私はどうなってしまうのだろう。

恐怖のあまりパニックになりそうになったとき、突然、ふっと体が軽くなった。

はっとして周りを見渡すと、寝る前と同じく部屋は月の光に満たされて明るい。

隣に寝ている○○ちゃんの寝顔がはっきり見えるほどだ。

私が寝る前と何一つ変わったところはない。

では、あれは一体何だったのか。

そのとき、私は決して寝てはいなかったのだが。
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2017年09月14日

金縛り


私は青年期からやたらと金縛りにあうようになった。

金縛りは、今では医学的な説明がついていると言われているが、それは本当だろうか。

脳波を調べたぐらいでわかるものだろうか。

医学者が適当に理由をつけて言っているだけではないのか。

はなはだ疑問である。

さて、私が金縛りにあうようになったのは、前に書いた、民間のタンカー会社に就職して、商船に乗っていた時からである。

中小の商船会社の船は、親会社の使い古しのぼろ船か、故障ばかりする稼働率の悪い船ばかり押し付けられていた。

従って、故障が多い。

本来は自動化されていてあまり人手はかからないはずなのだがその自動化の制御がきかない。

それを人の手で制御しなければならない。

これがめちゃくちゃ忙しい。

それに、やたらと故障する。

担当機器が決まっているので自分の担当が故障すると就寝中でもたたき起こされて修理しなければならない。

徹夜が3〜4日に及ぶことがざらにある。

そんなときは、作業中に立った状態で眠ったことも珍しくない。

だから、寝るときはすぐに寝付かなければ、ろくに寝ないうちにたたき起こされることになる。

なんとか、ベッドに入ってすぐに眠れる方法はないものだろうか。

考えた末に試したのが、意識を空っぽにして何も考えず何も意識しないことであった。

しかし、これは、口で言うのはやさしいが、実際にやってみるとなかなかうまくいかない。

雑念がつぎつぎと湧いてきて意識が空っぽにならないのである。

しかし、やっているうちにできるようになった。

ところが、これが、ひどい悪夢を見るのである。

その夢たるや、実に凄まじくも陰惨なもので、まるで地獄に落としこまれたようなものであった。

そのとき、必ず金縛りが起きる。

体の身動きが全く取れないのだが、身の危険を感じたのは全く息ができないことである。

意識のなかでは、これは夢だということがわかっているのだが何もできない。

これは夢だから目さえ覚ませば助かると思い、大声を出そうとするのだがこれもできない。

まるで蜘蛛の巣にでもかかったような状態のなかで、必死で声を出そうと努力しているうちに何とかあとかうとか声を出すことができた時、目が覚めるのである。

やれやれ、助かった。息も普通通りできる。

とうとう、毎日、寝るたびにこれが起きるようになったので、もうこのような、意識を空っぽにすることは止めてしまった。

しかし、後遺症が残った。

それ以降も、ひと月に数度、このひどい悪夢と金縛りが起きるのである。

ただ、次第にこの頻度は少なくなり、ここ十年ほど、つまり船を下りてからはこの地獄のような金縛りから解放されたのである。

ところが、その代り、別の金縛りが起こるのである。

今度は、息はできる。

しかし、猛烈な力で胴体を締め付けられる。

もがけばもがくほどこの締め付ける力は強くなるし、その時の不快感は耐えがたいのである。

何故だろうと考えたとき、寝入る前に一瞬ではあるが意識が空白になることがある。

その一瞬に夢魔に付け込まれるのではなかろうか。

そう思い、ベッドに入ってからは、亡き父母の思い出や楽しかったことを思うようにしている。

それ以降、金縛りは起きてはいない。


ラベル:悪夢 金縛り
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2017年09月13日

たたりか?


私の母は5人姉弟の長女であった。

しかし、実は母は12人兄弟の三女であった。

ところが、そのうち7人は子供のうちに次々に亡くなってしまい、残ったのは母を筆頭に5人だけになってしまったという。

何分にも時代が時代、大正のころのこと、医療技術もさほど発達しておらず、中国山脈のど真ん中の僻地である。

一度病気にかかると医者は余り当てにはできない。ましてやこれらの母の兄弟姉妹は幼いうちに次々と亡くなってゆく。

祖母は可愛い子供たちが次々に亡くなってゆくことに耐えきれず、あちこち祈祷師を探してまわったそうである。

そして隣の岡山県の新見に優れた祈祷師がいると聞き、訪ねていった。

その祈祷師の言うには、屋敷の裏の畑は前は墓地であり、その墓が大水で流されたあと、永らく放置されていたところを、それと知らずに畑を造った。

そして、そこに下肥を掛けていたことが全ての障りの元だという。

祈祷師の言うには、まず、その畑を掘り返してみれば人骨がたくさん出てくるからそれをまとめて祀り、毎日お線香をたいて供養しなさいとのこと。

祖母は、その畑に心当たりがあったので、帰るとすぐにその畑を掘り返してみた。

すると、なんと言うことか。

古い人骨がザクザク出てきた。

それをまとめて祀り、毎朝、線香をあげて供養したそうである。

それ以降は子供は皆、誰一人亡くなることがなくなったという。

昔、母の実家に行くと、祖母や叔父が毎朝、石でできた家の形をした小さな祠にお供えをし、お線香をあげていたのを不思議に思い、母にそのわけを聞いたところ、上記の答えが返ってきたのである。

昔はこのようなことは珍しくもなんともなかったと母が言っていたことを覚えている。

このようなことは今も起きているのだが、多くの人たちは、そんな馬鹿なことがあるものかと一笑に付して信じようとしないだけかもしれない。

ラベル:祈祷師 祖母
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2017年09月10日

正夢と予兆


これは私の実体験である。

私の父は私が高校二年の夏、急に亡くなった。

私の高校入学式の日に岡山の病院に入院してから一年半のことであった。
結核による喀血が気管に詰まったことによる窒息死という。

その日の一週間前、私は夢を見た。

父が突然亡くなった。

遺体を霊柩車に乗せ、私が傍に乗って家から峠を越えたところにある焼き場まで行く途中のことである。

ちょうど道が三叉路になっていて、その脇にはコンクリート製の土管がいくつか置いてある。

その土管の傍で遊んでいた三人の子供が立ち上がり、真ん中の野球帽をかぶった男の子がこちらを指さし、「あっ、葬式じゃあ」と言ったのがはっきり聞こえたところで目が覚めた。

その話を母にすると「縁起でもないことを言いなさんな。お父ちゃんは病気が良くなったけえ退院したんじゃけえね」とえらい剣幕で叱られた。

母の顔を見ると目に涙をため、必死に泣くのを堪えている。

母が何故あのような怒りようをしたのか不思議でならなかったが、後で考えると、母は父の死が近いことを知っていたのだと思う。

そのちょうどひと月半前、急に父が退院してきて、二階の一番奥の部屋で静養していた。

最初は骨と皮ばかりに痩せ、足や腕の関節だけが目立っていたのが妙に悲しかった。

しかし、ひと月も経つと次第に肥って来て体力もついてきたようで、これならあとひと月もすれば、元のように元気になれると信じ疑うことはなかった。

だから、私達子供は、父が亡くなることなど考えもしていなかったので、この母の怒りは理解できなかったのである。

妹など、その冬のクリスマスのプレゼントに人形を買ってくれと父にせがんでいたくらいで、おそらく父本人も、突然自分の命が消えるなど夢にも思っていなかっただろう。

その日は迎えに来ていた母の妹、つまり叔母と、私の弟で母の実家に泊まりに行った。

家の前の坂を下ってゆくとき、二階の窓からこちらを見つめている父の姿を見て、妙に後ろ髪を引かれる思いがしたことが私の記憶に鮮明に残っている。

母の実家では、叔父のトラックの助手席に乗り、叔父の仕事を手伝っていたが、私の最大の楽しみは、そのトラックでのドライブであった。

父の死の前日、いつも通り、中国山地のど真ん中から薪を二トン積トラックに満載して瀬戸内海の海辺の町、寄島というところに納めに行ったときのことである。

母の実家から30分ほど走ったところ、人家もない山の中で車の後輪がパンクした。

よく見ると、もう一方もパンクしている。

「こんなことがあるか」叔父は驚いていた。

一度に頑丈なトラックの後輪が二つともパンクするなど普通なら考えられないことである。

狭い山道である。今のような舗装などしていない時代のこと。

何とか通行の邪魔にならないところまで動かして、叔父は助けを呼びに行った。

人気のない山中、心細さは例えようがない。

叔父が帰ってくるまでの時間が無限の長さに感じられる。

パンクを直し、スペアタイヤを取り代えて走り出したのはもう夕暮れが迫ったころであった。

そして、寄島で荷を下ろし、母の実家にたどり着いたのは、深夜2時を回っていた。

早朝、祖母に起こされた。

祖母の様子からただならぬものを感じたが急いで電話を受け取る。

受話器から聞こえてきたのは妹の声だ。

「お兄ちゃん、早よう帰って来て。お父ちゃんが死んだ」そういうと大声をあげて泣き始めた。

母は余りのショックで電話に出ることもできず、当時小学校五年の妹が電話をかけてきたのだった。

電話の向こうで母の嗚咽が聞こえる。

「早うご飯を食べなさい。すぐに帰ろう」そう祖母に言われたがご飯など喉をとおるものではない。

そして、家に帰ってみると、父は冷たい骸となって横たわっていた。

すでに父方の祖母や伯父たちが来ていて、夏場のこととて早急に密葬が行われた。

葬儀が終わり、遺体を霊柩車に納め、私と母が父の傍に付き添った。

八月の酷暑の頃である。

その霊柩車には冷房がなかったので窓は目いっぱい開けていた。

峠の上り口に差し掛かり、三叉路のところにコンクリート製の土管が置かれているのが見えた。

あれ、と思って見ていると、傍で遊んでいた子供が三人、突然こちらを向いて立ち上がった。

そして、その真ん中の子がこちらを指さして「あつ、葬式じゃあ」と言ったのである。

その子をよく見ると野球帽をかぶっている。

何ということだろう。あの一週間前の夢は正夢だったのだ。

そういえば、その前日のトラックのタイヤが二つともパンクしたこともこれと無関係ではないように思われた。

そして、一緒に母の実家に帰ったときの叔母の話。

福山からしばらくするとバスは山間部に入り、およそ三時間の間、山の尾根伝いや森の中を走る。

その間、たまにある人家の電灯以外全く光はない。

市街から山間部に入ってしばらくすると、何かボーツと光るものがバスにつかず離れず空中を漂いついてくるのに気が付いたそうだ。

その光は、私たちがバスを降りるまでついてきて、突然フッと消えた。

叔母は、気味が悪いと言って、その話を叔父や祖母に話していたのである。

めったにないトラックのタイヤが二つ同時にパンクしたこととこの叔母の見た光のこと。

これは父の死と何か関係があるのだろうか。それとも何かの予兆であったのか。

それは今でもわからない。

ラベル: 祖母
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2017年09月07日

不思議。これは何だろう。


私が人生で一番苦しかった時期。

それは、民間のタンカー会社に就職して最初の船に乗ったころであろう。

当時、大手の中核6社の下に系列の中小の船会社が多数あった。

そのころは機関士が不足していた為、就職は好調で、友人の多くはこの中核の大手の船会社に入った。

私はというと、在学中の最後の半年間の奨学金と支度金に目がくらみ、その子会社の方に就職した。

就職し、船に乗ってわかったことは、第一に学校で習った理論なぞ何の役にも立たなかったこと。

二つ目は、大手の会社とその系列の子会社との大きな格差であった。

給料や雇用条件も格段に差があり、また、乗組員の質も雲泥の差があったことから、すっかり嫌になり、絶望のあまり何時自ら命を絶ってもおかしくない状況であった。

前に書いた、岩国の錦帯橋での至福体験は、この頃のことである。

あの体験があって以来、この世には理屈では理解できない玄妙不可思議なことがあることを確信した。

そこで、本屋を巡り、何か良い本はないものかと探していたところ、ある一冊の本が目にとまった。

谷口雅春著の「生命の実相」である。

この本は、「成長の家」の総帥である谷口氏による「成長の家」の経典であった。

私は、夢中になってこれを40巻全てを読み、なかで説明されている「神想観」という瞑想法を実行してみた。

大昔のこととて、もうやり方は忘れてしまったが、その時、異常に感覚が鋭敏になったことに気が付いた。

特に聴覚が研ぎ澄まされ、船のエンジン音を通して、数十メートル離れた場所の僅かな物音まで聞こえるようになったのである。

それはどうやら一時的なもののようで、神想観を止めた後はふっつりと消えてしまった。

ただ、未だに消えぬものがある。

それは手の周囲1〜2ミリにわたっておぼろげに白い線が見えることである。

暗いところに手をかざしてみれば指の周囲に白い線がぼーっと見える。

ハレーションかとも思い、手を暗いところに持って行っても変わりがない。

これは一体何なのか。

いまだに答えは見つかっていない。
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2017年09月06日

死者が訪ねてくる


これはもう40年以上前、友人から聞いた話である。

あまりにも荒唐無稽な話なので本気にはしなかった。

夢でも見たのだろうと思っていたが、その友達があまりにも真剣に、絶対夢ではない本当の事だと言い張るので記憶に残っていたのである。

彼は、北海道の厚岸出身で、家は昆布漁で生計を立てていた。

当時、その地方では、このような話は年寄の間では普通の話で、この話をしてもよくあることの一言で片づけられていたという。

その友人の子供の頃の話である。

親戚の子供が亡くなった。

その子はことさらその友人の兄が可愛がっていて、いつも連れて歩いていた。

その通夜の夜の事である。

その兄と枕を並べて寝ていると、突然、玄関のドアが開いた。

おかしい。確かドアには寝る前に彼自身が鍵をかけたはずだ。

それが開いたのである。

そして、その玄関から人がこちらに来る気配がする。

廊下の板を踏みしめる音がだんだん近づいてくる。ギッ、ギッと言う音がだんだん大きくなる。

そのとき、年寄から聞いた話を思い出した。

人が死ぬと、その人の一番親しかった人に会いに来るという。

ぞっとした。

足音は部屋の前を通り、台所にゆき、水道のカランをひねり水を出した。

その水をコップに受け、喉を鳴らして飲む音が嫌にはっきり聞こえる。

そして、水を飲み終えると、そのコップをカタンという音を立てて置くと、又廊下を引き返してくる。

ギッ、ギッ。足音がだんだん近づいて大きくなってゆく。

彼は恐ろしさの余り、布団を頭から被って震えていたという。

足音は彼の部屋の前でピタリと止まった。

恐怖は極限に達した。横で寝ている兄を起こそうと思ったその時。

兄が何とも言えないうめき声をあげた。

彼は目をつぶり、布団を被ったまま震え続けていた。

しばらくすると兄のうめきが止まり、何事もなかったように寝息をたてはじめる。

足音は部屋の前から次第に遠ざかり、玄関のドアを開けて消えていった。

明け方になり、彼の両親が通夜から帰ってくるまで彼は布団を被って震えていたという。

両親が帰って来てドアの鍵を開けた。ということは玄関は鍵がかかったままということだ。

台所に水は流した後はなく、コップも戸棚にある。

やはりあれは夢だったのかと思った。

それにしてはいやにはっきりとしていてどう考えてもても夢とは思えない。

そうしているうちに兄が起きてきて、「今朝はやられたよ。○○ちゃんが会いに来た」そう言って当たり前のように笑った。

これを聞いた彼の父親は、「やはり、年寄の言うことは本当だったな」と言ったという。

これは、昭和30年代終わりごろの話である。



ラベル: 足音 友人
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2017年09月05日

私の言う神仏に対する信仰とは



マスコミによる我が国民の愚民化と、その克服には、我が国に対する誇りと愛国心、そして、神仏に対する信仰が大切であると言ってきた。

もっとも、祖国日本に対する誇りと愛国心があれば、これと真逆なことばかりやっているマスコミに洗脳されることはないのだが。

しかし、誤解無きよう。これは決して特定の宗教を信心しなさいといっているわけではない。

もちろん、これは、明治以降に出現した新興宗教でもないし、戦後雲のように湧いて出たカルトでもない。

仏教ならどの宗派でも構わないし、神道ならどの神社でもよいと思う。

あるいは、キリスト教でもいいのではないか。

つまり、日本古来の宗教や、永い歴史によって原理主義的なものが抜けきっている宗教ならなんでなければならないということではないのである。

何故かというと、どんな宗教でも、過去を探れば、必ず時の権力と結びついて力で布教し、他教の信者を弾圧したり、或は原理主義が台頭して宗派同志で争った記憶があるものである。

そういった過程を経て、血なまぐさい俗世や争いを超越して枯れ切ったもの。そのような歴史ある宗教。

昔からその家で信じていた宗派の仏教や近くの産土神や鎮守の神様神社。伊勢の皇大神宮やその地方の中心となる大きな神社であれば何でもよいと思う。

そのような神々を神棚で祀り、我々の先祖の墓や仏壇を祀る。そういった基本的なことが大切なのである。

つまり、昔、日本人が普通にやっていたことである。

何も特別なことをやる必要はなく、仏教だからといってお坊さんのように御経を読みこなしたり、厳しい修行など必要が無い。我々一般人は、その菩提寺のお坊さんの言う通りやれば良く、毎日の仏壇参りを習慣にすればよいだけのはなしである。

神棚は、神様のお札を祀り、何か願い事があれば、その神社に行って相談やお願い事をすればよい。

大切なことは、常に神仏と共にあることを意識し、感謝の念を絶やさぬことであろう。

つまり、人間は、単なるものではないしその本体は霊的な存在である。

そして、自分は一人ではなく、常に神仏や亡くなった愛する人により見守られていることを自覚すべきであろう。そうすれば、自ずから万物に対する感謝の気持ちが湧いてくる。
また、この世は自分ひとりで生きているのではなく、お互いの存在によって生かされていることも感じられ、周囲の人や、国に対する感謝の念も沸いてこよう。

たとえ、大企業の社長といえども、社員が働いてくれるからこそその会社を維持してゆけるのだし、国家元首といえども国民がいなければ単なる一個人にすぎない。
つまり、我々人間は、周囲のあらゆる存在から生かされているということを忘れてはならないのである。

人間は、死せる愛する肉親に守られ、神仏に助けられているということは私がこれまで書いてきたとおりである。

これらの経験を通して、私は霊魂の存在を信じるし、神仏も又あの世もあると実感している。

以上でおわかりのように、私の言う信仰というものは、取り立てて特定の宗教に入信し、厳しい戒律を守り、大変な修行をせよと言っているわけではない。

我々の父母や祖父母がやっていた神仏や祖霊とともにある生活。つまり「かんながらのみち」の生活をもう一度復興すればよいだけで、決して煩雑なことや難しいことをせよといっているのではないのである。

目に見え、又、手に触れ、耳に聞こえ、鼻に匂い、口で味わえるもの。つまり、五感で感じられるもののみが実在するとは言えない。

人間の五感で感じられる範囲は極めて狭く、この感覚の外には大きな世界が広がっているのである。

例えば、蝶などの昆虫は紫外線などの不可視光や偏光を見ることができるということがわかっている。

つまり、昆虫は人間とは違う世界で生きているともいえるのだ。

これをみても、人間の狭い範囲でしか認識できない感覚で物の正確な姿や本質を理解することなど到底無理な話なのであり、人の認識できない世界には、およそ人間の理解を超えた存在が実在するということは容易に想像がつくのではなかろうか。

こうして考えると、人間の狭い範囲しか認識できない五感でもって、ある、無いと言うことほど愚かなことはないのである。

唯物論や人間の限られた機能しか持たぬ脳が作り出した科学しか信用しない現代日本人。

彼らは、万物の限られた一面しか理解できないのに、あたかも全てを知っているかのように錯覚しているのである。


ラベル:人間 宗教 神社
posted by HOK大臣 at 16:28| Comment(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする